自己嫌悪・・・のもとを辿ってみる

先日、ちーちゃんを叩いてしまったことについて、いろんなご意見をいただきました。
みなさんやっぱりママとして思うトコロがある話だったようで、少し励まされるようなコメントをいただけてとても感謝しています。ありがとうございます。
最終的にはきっと私も自分なりに納得するかなぁ・・・とは思うのですが、自分があの時どうしても自己嫌悪に陥った理由について、もうちょっとお話しておこうと思います。
ココから先、いつもの「だ・である」の文体に変えます。なんかヘンだけど、そうしないとこれまたヘンな感じがするので・・・(^_^;
まず、状況そのものについての再検証。
私がちーちゃんを叩いた理由は
”ちーちゃんがガスレンジのツマミを無理に回してしまい、ガス漏れを起こしたから”
というモノだった。
これは危険な行為なので、ちーちゃんに注意を促す必要は絶対的にあったとは思う。
ただ、火とか刃物とかの危険に比べると、これは対応に急を要するものではなかったとも思う。
従来の私の対応としては、まずはその危険を取り除いて、それから
「ちーちゃん、それはダメなの」
と強い口調で言うとともに、ちーちゃんを台所から追い出す。
・・・というパターンで十分だった筈だ。
でも、私はあの時即座にレンジのツマミを戻すとすぐにちーちゃんのことを叩いてしまった。
何故か。
その理由はちーちゃんに泣かれた途端に自分でハッキリと認識した。
私はゆーちゃんが泣いているのをあやしたいのをこらえて、台所仕事を優先させていた。
私は台所仕事を速やかに終わらせたかったのに、ちーちゃんにそれを邪魔されていてイライラしていた。
だから叩いたんだ。
そんな自分の未熟さと勝手さが嫌だと思った。
そうは言っても、人はそうカンタンに完璧な人格になれるものではない。
自分の未熟さにも折り合いをつけて、ある程度受容してゆかなければやってられないものだとは思うのだけど、私には、できればどうしても捨てたくないこだわりがひとつある。
それは、
「ちーちゃんやゆーちゃんにとって、私は世界中で最後まで信じられる人間でありたい」
ということだ。
もともとそれは、私が昔、自分の母親に求めていたものだった。
「最後の最後まで、私の味方でいて欲しい」
ということ。
私は昔、イジメに遭っていた。
振り返ってみればそれは人生の糧となる経験だったし、その当時の全てが辛いことばかりだったわけではなく、楽しいこともあった。
でも、少なくとも私は小中学生の頃、ずっと学校では心が安まることはなくて、学校生活が苦痛だった。
通学路で毎日石を投げられたり、ばい菌扱いされたり、私物を壊されたり隠されたり汚されたり、いろんなことがあった。
理由なんかあってもなくても関係なく、私のことを知っていようといなかろうと関係なく、まるで校則で決められた事柄であるかのようにいじめられていた。
イジメに遭った人はみんな必ず考えたんじゃないかと思う、
「私の存在価値ってなんなんだろう?」
という問いを、小学生のアタマで一生懸命考えた。
その問いに対する答えは、結局自分で見つけることができた。それは今でも自分の宝物になっている。
ただ、その時の思い出として今でも心にひっかかっているのは母の対応だった。
私は学校に行くのが苦痛で遅刻が常習となってしまい、それについて母は学校から何度か呼び出されていた。
だから、私のイジメについても知っていた筈だと思う。
けれど、その時の母の対応は、私が何故遅刻をするのかを聞くことも、イジメについて問いかけることもなく、ただただ
「学校には遅刻せずに行かなければならない。遅刻するようなだらしない子はいじめられるんだ。」
という言動に終始していた。
だから私は、学校での辛い出来事について母に相談する気持ちにはなれなかったし、自分の存在価値について母に「認めて欲しい」と要求することはなかった。
今、その当時を振り返って考えると、母なりにいろいろ考えたり行動していたのかも知れないけれど、母にとっては難し過ぎて、私に対しては思うようなアクションがとれなかっただけなのかな、と思う。
でも、もしその当時の私がもう少し心が弱いコだったり、もっと悪い出来事が起こっていたら、あのイジメに耐えられずに死んでしまったり心の病気になってしまっていたかも知れないとも思う。
だから、私は自分が人の親になるのであれば、子供にとって、
「最後の最後まで自分の味方でいてくれる人、自分の存在価値を認めてくれる人」
と思われるようになりたいと願った。
だから、私はちーちゃんやゆーちゃんから信頼されなくなったり、心を開いて話をしてもらえなくなることを怖れている。
”叩く”という行為のせいで、本来ちーちゃんやゆーちゃんが私に対して望んでいたコミュニケーションを止めてしまわないか、不安なのだ。
もちろん、今の自分は母を嫌ってなどいない。「完璧」とか「理想」とかの枠に入る母ではなくても、私は自分の母が大好きだ。
でも、ちーちゃんやゆーちゃんが私と同じような考えに帰結してくれるのかはまだわからないし、何よりも彼女達が必要としている時に母親としての信頼を保っていられる人間でありたいと思うから、理想にこだわり過ぎる危険を感じながらも、なかなかユル〜く考えられずにいる。。。
う〜〜〜ん・・・
・・・・・・・・すこし、思いついた。
「信頼される母親になる」という、厳密に考えるとかなり高いハードルになりそうな目標の手前に、もうちょっとアバウトなハードルをとりあえず置いてみるといいのかも知れない。
人間としての一長一短もコミコミで、どうのこうの言いつつも「愛される母親」になる。
それで、まずはちーちゃんとゆーちゃんが快く私の傍にいたいと思ってもらえるように。
なんだか、少し目標を抽象的にすることで曖昧にしただけなのかも知れないけれども、とりあえずはこんなトコロでどうだろう?